Hear the dorcus sing
オオクワガタの飼育記録を公開します。能勢YG血統での超大型個体の作出と、三重県桑名産の大型血統作出を目指します。関西大鍬形研鑽会(KOK)会員。年間王座決定戦での優勝を秘かに狙っています♪
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
18年前
月日の移り変わりは、早いもので
あれから18年の歳月が過ぎました。

自分の体験した事を、風化させ無い為にも、薄れつつある記憶を辿って、こここに記します。
自分の人生に大きな影響を与えた、歴史の1ページです。

クワネタは、ありません。
面白くもありません。
ご了承下さい。

当時、私は社会人2年目の24歳。
神戸市灘区で一人暮らしをしていました。
阪急電鉄の王子公園駅から徒歩10分弱、
近くには、水道橋筋商店街の店舗が連なり、利便性が高く、
南下がりの地形に合わせて
マンションが建ち並ぶ、比較的静かな住宅街のワンルームマンションで、独身貴族を謳歌していました。

3連休明けの火曜日の夜明け前、
第一波というのか、ヌルりとした横滑りの感覚で、直ぐに目覚めました。いつもは寝起きが悪いのに、目覚めたのは、眠りが浅かったのでしょう。3連休明けで、会社に遅刻したら不味い、というプレッシャーがあったのでしょうか。
『この感覚は何だろう?』
一瞬、不思議な感覚に襲われました。

続く第二波は、とてつもない縦揺れ!
ベッドから起きて、腰掛ける事などとても不可能。
地震??まさか?こんな大きな揺れがあるのか?地震じゃ無ければ、一体何が起きてるのか?ウチのマンションだけ何か起きてる?
経験した事のない揺れで、戸惑いと恐怖ばかりでした。

そして、第三波の横揺れ!
こいつもデカイ!
グイグイと横に揺さぶられ、ベッドがフローリングの床を滑って動いているのは、認識できていたと思います。
長い横揺れが続く。1分近く経過したのでしょうか?
徐々に揺れが小さくなってきました。
恐怖心が過ぎ、思考も徐々に冷静さを取り戻しつつあります。
やはり地震だったのか?しかし、あんな揺れが起こりうるのか?地球がどうにかなってるんでは?
つぎつぎと疑問符が頭の中に浮かんできました。

ようやく、立てるくらいの揺れになってくると、ベッドから起きて、電灯を付けようとしましたが、ダメです。
暗がりの中、床に置いているテレビのスイッチを付けようとしましたが、テレビがこけてる!
暗がりから、徐々に目が慣れてきて、手近な衣類を着込みました。

電気と水道を確認しましたが、どちらもダメです。
マンションの屋上に貯水槽があったようで、水がザワザワと流れる音が響いてました。

しばらくすると、空が白みだし、外の景色が見えるようになりましたが、ウチから見える建物には、大きな被害はなかったようでした。しかし、遠くで、叫ぶ声や救急車のサイレンも聞こえ出し、街が少しずつ騒ついた雰囲気になってきたようです。

電気・水道・ガスがダメなのは確定的で、一人でジッとしていても仕方ないので、三宮の会社へ向かおうと出発しました。7時半頃です。
いつもの通勤経路で王子公園駅をめざしますが、商店街の外れの小さな古い木造建物がペチャンコに潰れています。
地震発生から2時間近くたっているので、人が閉じ込められたままの雰囲気はありませんでした。
先を急ぎ、王子公園駅に到着すると、案の定 電車は動いていません。
駅員さんに尋ねると、動く見込みは無さそうで、JRが動いているかもしれないとの話をお聞きし、JR神戸線の灘駅へ向かいました。
灘駅へ近づくと、地中のガス管が漏れているのでしょう、強いガスの匂いがしました。
駅前で、留まっている人々の話から、こちらも動いていないことがわかりました。

仕方なく、徒歩で三宮まで行く事にしました。正常時なら40分くらいで行ける距離です。
道中、線路沿いの道路を歩いて行くと、路面が隆起したり陥没しているところがありました。足元に注意しながら、ひたすら三宮を目指しました。銭湯のエントツが、倒れているのも見ました。

三宮に近づいて来ると、車の往来が増えて来ました。もちろん、信号機は停電で全く点いてないのですが、片側2車線の国道が交差する交差点すら、警察官もいませんでした。そういえば、パトカーや消防のサイレンは聞こえるけど、車両は殆んど見なかったと思います。こんな大きな交差点でも、信号機が作動していないのに、車の事故が無く、運転している方が、それぞれに周りを見渡して、譲り合って走行していました。その様子を見て、凄く救われた想いがしました。地震発生から、ここまで、騒ぎ立てるような人も見かけませんでした。

1時間近くかかって、三宮駅に到着しました。タクシー乗り場には、数人の方が、タクシーを待っていました。
乗り場に入って来た運転手さんに訪ねると、道がデコボコで、まともには走られへん、との事でしたが、お客さんが困っているだろうから、行ける処まで走る、と言っていました。

駅南の旧居留地にある会社を目指します。記憶が不確かですが、センター街を通り抜け、ダイエーの店舗が、激しく崩れていて、さすがに通り抜けられませんでした。
迂回して、会社のあるビルの近くまでやって来ました。この辺りは、オフィス街で、10階建くらいのビルが建ち並んでいますが、いつもと景色が異なります。倒壊までしていなくとも、ビルは途中のフロアーで折れ、隣り合うビルにもたれかかったり、途中のフロアーが潰れて、1階分低くなったり。

会社の入居するビルに近付くと、同じ会社の方が2人いました。
支店長と他の部署の課長さんです。
知った顔を見て、生き返った気持ちになりました。ここまで、凄く心細かったんです。もちろん大きな余震もあり、恐怖感と緊張感でここまでたどり着いて、ホッとしました。
50人以上勤務している事務所ですが、出勤出来たのは、私も含め3人です。
支店長は、兵庫区から。私と同じく徒歩で出勤されたそうです。
課長は、姫路から車で来たそうです。地震の直後に自宅を出て、北神戸の高速道路が通行出来ていたようです。
電車通勤の方が大半で、車も普通に走れないので、殆んどの社員は、出勤出来なかったのでしょう。被災している可能性もありますし…

会社の入居しているビルは、幸いな事に、外観上大きな被害は受けていないようです。外壁が、一部剥がれ落ち室内が見えるとか、ガラスがワレるくらいの損傷です。
ビルの1階には、管理人が詰めていて、支店長は、事務所に入ろうと、管理人とやり取りしてましたが、安全が保障出来ないので、立ち入りを止められていました。
待っている間に、ビルの1階入口にある公衆電話で、実家に電話しました。三重の方は、さほど揺れなかったのでしょう。両親と妹も、出勤してしまったようで、留守でした。当時は、携帯電話なんて、殆んど普及してませんでしたし、実家は、まだ黒電話だったと思います。伝言すら出来ないと困りました。この後、どうなるのか?電話が、繋がらなくなるかも?しばらく連絡が取れなくなると、直感的に感じました。何か連絡が取れる方法を考えました。
ウロ覚えの、母の実家(叔父)の電話番号が、浮かんで来ました。電話すると、叔母さんが出てくれ、両親に無事を伝えてくれるよう頼みました。
あとから考えると、この時間は、まだ、神戸が震源で、これ程、大きな被害が出ているのは、報道されていなかったのでしょう。叔母さんも、こちらの切迫詰まる雰囲気がわからず、さぞかし戸惑ったと思います。
とりあえず、伝言ができただけでも、とても安心しました。

まだ、ビルには入れずに待機していると、東灘区に住む、2年上の先輩が、到着しました。車は、無理だったようで、バイクで来たそうです。

会社に向かう途中、阪神高速道路が倒れていた、と教えてくれましたが、私もここに来るまでに見て来た街や、今見えている景色から、大きな驚きもありませんでした。駅も潰れてた。と聞きましたが、後日分かりましたが、灘のひとつ大阪よりの六甲道駅のことでした。

4人になった事で、支店長が、ビルの5階にある事務所に行こうと言い出しました。倒壊しかかったビルを目の当たりにして、物凄く怖かったです。事務所に入っても、仕事が出来ない事は分かっていましたが、責任者として、職場がどのようになっているのかを確認したかったのでしょう。
しぶしぶ全員で、非常階段を上り、事務所に入ります。

机や椅子が、いつもと違う配置になってます。グチャグチャです。横揺れで、大きく動いたようです。そして、金庫。これも、200キロ以上あるような大型の物ですが、数メートルは移動してました。
気休めに机の配置を戻したり、散らばった書類を片付けたりしました。
作業をしていると、大きな余震!
片付けた書類が、崩れます。
屋外なら走って逃げる事も出来ますが、ビルの5階に居るのは、物凄く怖かったです。

片付けも程々で、支店長から食料を買い求めるように言われ、先輩と2人で、ビルを出ました。
昼ご飯には、少し早かったのですが、未経験の緊張感からか、皆お腹も空いて来たのでしょう。
駅から会社までは、開いているような店舗はありませんでした。コンビニを探そうと、神戸市役所の方へ向かいます。今ほどコンビニも多くなかったと思います。市役所まで来ると、避難して来たと思われる人がいましたが、まだ少数でした。
市役所の建物も、その後テレビで幾度となく見ましたが、1フロア減ってるのを目の当りにし、役所の建物ですらこれかと、新たな恐怖が込み上げて来ました。

市役所前の広い道路を挟んだ向かいにコンビニがあり、人が集まっているのがわかりました。この時になって、食料の不安が、少しよぎりました。
コンビニに入ると、もちろん停電してレジが使えないのですが、店員さんは、電卓を叩いて会計をしていました。客は、20人くらいだったと思います。皆さん、薄暗い店の中を、争う事無く、食料を買い求めていました。
私達も、4人分のおにぎりや軽食、飲み物を買って、会社に戻りました。

ここまで書いて、かなり疲れました^^;
記憶を辿っているので、頭の中の古い引出しを探すのに時間がかかります。

一昨年の東日本大震災も、亡くなられ方、被害を受けられた方は、沢山おられます。
しかし、直接の被害が無い方も、このような大きな災害に至っては、何らかの影響を受けている事でしょう。
一人ひとりの人生を変える、大きな出来事であったと思います。
私は、この日の経験を経て、死を身近に感じながら、これ以上、辛いことは、自分の身の回りに起きることは無いだろうと実感していました。
かなり人間が図太くなったのは、間違いありません。

いつまでも下を向いていてはいけません。
前を向いて、少しずつでも歩んでいけば、いつかはイイことがあります。
18年も経った今は、阪神大震災の出来事を思い出す事も、殆んど無くなりました。
結婚し、家庭を持ち、子供が生まれ、家族ができ。新たな友達もでき。
新しいクワガタ飼育の趣味を見つけ、そして、ここでも新たな出会いがある。
こんなに楽しいときが来るなんて、あの日は、想像もできませんでしたから(^^)

このブログが続いていれば、1年後に続きを(@^^)/~~~
スポンサーサイト

コメント

 管理者にだけ表示を許可する
こんにちは。
田舎っぺ。 | URL | 2013-01-17-Thu 14:51 [編集]
被災された方には申し訳ない気持ちもありますが
やはり風化させてはいけない震災はたくさんありますね。
私も西方沖地震を経験しましたが
今でもその時のことだけは鮮明に思い出せます。
その時いた場所に行くとやはり怖くなります。

しかし、仰る通り、下を向いていては次に進めませんね!


田舎っぺさん♪
桑名鷹 | URL | 2013-01-17-Thu 15:17 [編集]
コメントありがとうございますm(_ _)m

下手な文面で、かなり長ったらしくなってしまいました^^;

今日は、思い出の地、神戸を通り過ぎ、田舎っぺさんのいらしゃる九州に向かってます。
福岡県まで、前進あるのみ!です(^^)

taka3 | URL | 2013-01-17-Thu 20:22 [編集]
その当時は正に現地におられたのですね。私は逆に伊勢の方におりました。ただ古い木造住宅だったので震度4でも倒れるかどうかと飛び起きておそえていた記憶があります。直ぐさま実家の京都へ連絡をとり安心しました。その後は徐々に広がる被害に唖然としながらいたのを覚えています。
今はその中で10年に近く住んでいますが、毎年子供の中学や高校でその話題がニュースで出て思い出されます。
我々の仕事は如何に後生に経験を伝えるかと言うことだと思います。20年もすれば東日本大震災も忘れ去られるかもしれません。

ougo | URL | 2013-01-18-Fri 00:27 [編集]
こんばんは。阪神大震災当時、私は千葉で夜間の仕事をしており大騒ぎになっているのを職場の食堂のテレビで見ました。

東日本大震災は茨城でこれも勤務中、お客さんと玄関から外に出て (何、この横揺れ。地割れしちゃう?この世の終わり?) と心の中で思いました。目の前で屋根瓦がボロボロ落ちてくる。電柱が倒れてくるのでは?という不安から上に対する警戒・・・。

リンクさせて頂きました。宜しくお願いします!!
taka3さん♪
桑名鷹 | URL | 2013-01-18-Fri 01:06 [編集]
こんばんは♪

そうですね!
我々残された世代が、語り部として、次の世代に引き継がないといけません!
子供と、震災の事を話し合う機会がなかったのですが、キチンと引き継ぎたいと思います。

コメントありがとうございましたm(_ _)m
ougoさん♪
桑名鷹 | URL | 2013-01-18-Fri 01:13 [編集]
こんばんは♪

東日本大震災で、大変なおもいをされたのでしょうm(_ _)m
親として、自分の子供達には、そのような経験はさせたく無いのですが、あの日の事や、その後、大変だった日々の事は、何れ話したいと思います。

リンクありがとうございましたm(_ _)m
こちらも、リンク貼らせていただきます。
これからも、よろしくお願いします( ^_^)/~~~

トラックバック
トラックバック URL
Copyright © 2017 Hear the dorcus sing. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。